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一喜会の歩み
高知がん患者会一喜会へようこそ


一喜会の歩み


 ○一喜会の歩み 
 ○高知にがん患者会を
 ○がんの苦しみ 支え励まし合おう
 ○がん患者に「心の薬」
 ○がん体験を社会に還元したい!
  手探りながら育てたよりよい医療を目指す会
 ○高知県県議会定例会で請願書が可決されました

 ○香川にもがん患者会 2006年2月設立へ
 ○母娘で闘う〈1〉-娘の病名、メモで告知-
 ○母娘で闘う〈2〉-手術後も終わらぬ治療-
 ○母娘で闘う〈3〉-情報求め 専門医100人に手紙-
 ○母娘で闘う〈4〉-再発率80% 重み抱え守る-
 ○母娘で闘う〈5〉-情報・仲間集め不安克服-
 ○がん情報編 -主体的に学習、うのみは禁物-



【一喜会の歩み】

1999年娘、22歳で胃がん発病、80%の再発率に不安と恐怖の日々が続く、
がんとはがん患者ばかりでなく、愛する人や家族までも嫌が応でも巻き込んでしまう。
がんの最新情報が欲しい、がんと闘うための勇気が欲しい、一筋の希望が欲しいと地方の高知でがん患者会を探してさ迷った。
しかし何処にもがん患者とその家族の社会的な受け皿はない!
かりが続きます。そんな折り、全国には「がん患者会」があり、患者はその会に参加することで勇気と希望、癒しを得ていることを知りました。私は高知にもがん患者会があると思い探してみました。しかし、乳がんの患者会はあるものの、他のがん患者会はないことが分かり、がくぜんとしました。日本の死因のトップががんであり、4人に1人はがんで死亡する時代、心身の不安を感じたとき、気軽に駆け込める専門の相談室や情報センターなど、多方面でのサポート態勢づくりが、もっと検討されてもよいのではないでしょうか。がん患者会を高知にも立ち上げたいものです。そうすれば、同じ病気で苦しむ人々が、ほんの一瞬でも心の安らぎと癒しを共有でき、病に押しつぶされることはないでしょう。日進月歩で高度化する医療に福音を感じながらも、片隅に追いやられた心にも光を、と願わずにはいられません。
安岡佑莉子 会社員 

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【がんの苦しみ 支え励まし合おう 高知新聞 2003年3月14日掲載】

県内患者らの組織「一喜会」
16日高知市で会合 不安話負担軽減を

がん患者の家族を持つ女性の本誌への投稿をきっかけに2002年末、発足したがん患者会が活動の輪を広げている。同じ病で苦しむ人たちが支え、励まし合うことで「癒し」を共有しようという「一喜会」。16日には高知市九反田の市文化プラザ「かるぽーと」で医師の講演と情報交換会を兼ねた会合を開く。

活動の中心になっているのは、同市平和町の会社員、安岡佑莉子さん。安岡さんは胃がんになった長女に自ら告知した経緯や手術後の再発への不安などから、県内のがん患者会を探したが、乳がん以外の患者会がないことを知った。2002年11月に本紙「声ひろば」に「高知にもぜひがん患者会を」と題して投稿した。その後、安岡さん宅には「ぜひつくってほしい」と賛同する声が相次ぎ、会の立ち上げを計画。長女の手術を担当した当時高知医大第一外科の松浦喜美夫助教授や同医大看護学科の藤田倫子教授らの協力で、2002年12月下旬に発足した。

メンバーはがん患者やその家族、医師や医療従事者で構成。1月に高知市で初会合を開いたが、参加者から「こういう会を探していた」「次はいつ?」との声がよせられた。16日午後1時から開く会合では、中村市の小笠原望・大野内科院長を講師に招く。

安岡さんは「自分の抱いている不安を同じ立場の人に話すだけで、心の負担が軽減されると思う。できるだけ多くの人に参加してほしい」と呼びかけている。

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【がん患者に「心の薬」 2003年5月12日読売新聞掲載 文-尾之内 潤】

闘病仲間、家族と癒し共有の会「交流広げる安岡さん母子」

「あやちゃんどうやった。だいじょうぶやったんやろ」。平成15年3月17日の夜、高知市内の安岡佑莉子さんの自宅に電話がかかった。長女英子(あやこ)さんのがん再発検査の結果を問うがん患者会の仲間からの電話だ。「ありがとう。おかげさまで」。安岡さんは電話口で何度も頭を下げた。
 胃の2/3を切除する手術から3年半。この日の検査で再発の恐れはまずないと診断されたのだ。受話器を置いたとたん次の電話が、そしてまた次の電話が。仲間からの電話はしばしば鳴り止まなかった。
 4年前の1999年9月安岡さんは高松市内の病院で医師と向き合っていた。英子さんの腹痛の検査結果を聞くためだ。医師は押し黙ったまま安岡さんにメモを渡した。「胃がんです。時間がありません」。女手1つで育てた娘。「まだ22歳なのに」。自宅に帰る途中の車の中で安岡さんは助手席の娘に打ち明けた。「あんたの病気、がんで」。ハンドルを手に前方を凝視する安岡さんの耳に、しばらくしてむせび泣く声が聞こえた。
 看護に容易な高知医大病院で手術。再発を防ぐため、抗がん剤を打ち続けた。副作用の吐き気、刺すような痛みで苦しむ娘の姿をそばで見守るしかなかった。英子さんの体重は34キロまで減った」。
 再発の不安、たえることのない副作用の苦しみ。母子には同じ苦悩を共有できる仲間がほしかった。安岡さんは2002年11月新聞の読書欄に投稿した。「心の癒しを共有できる会をつくりませんか」と。英子さんもPR用のポスターを作って病院に張った。
患者や家族約30人が応じた。担当医を顧問に「1つの喜びでも分かち合おう」と、「一喜会」と名付け、12月発足。

 「心まで病気になっては闘えません。夢や希望を持って頑張って生きます」。2003年1月、高知市内で開いた初会日で、英子さんは体験発表した。3月の会合ではすっかりうち解けた参加者が談笑する姿が随所で見られた。「次はもう来れんかもしれんけど楽しかった」と笑顔で会場を後にする患者もいた。「何より心の薬になりました」と話す人もいた。がんの専門誌を通じて神奈川県の患者会と交流。入手が困難な薬を調達するなど県外との輪も広がり始めた。「一人でも多くの患者を、疲れ果てたその家族を癒すことができれば」。苦しみを経て生まれた安岡さんの決意は固い。

大きい患者会の役割
英子さんの主治医で「一喜会」の顧問の松浦喜美夫・仁淀病院院長「同じ立場の患者や家族がお互いの苦しみや不安を語り合うことは医者の力も及ばない癒しの効果がある。患者会の役割は大きく、情報提供など出来る限りサポートしたい」
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【がん体験を社会に還元したい!手探りながら育てたよりよい医療を目指す会 】

がんサポートに掲載 一喜会会長 安岡佑莉子
高知らしさを大切に、高知ならではの心の結びつきを育てたい

1999年、ノストラダムスの大予言は、まさしく我が家に的中しました。高知恒例真夏の祭典、「よさこい祭り」の興奮未だ冷めやらぬ9月、22歳の娘が思いもよらぬがんの宣告を受けたのです。「急いでください。時間がありません!」の声に追いまくられるように、手術を受け、細胞検査の結果、1年以内の再発率80%というあまりにも厳しい現実に身を置いたとき、さまざまな葛藤や苦悩に耐えかねて、相談できる機関を求め。がん患者会を探しました。しかし私は、なんとこの坂本龍馬、中岡慎太郎、板垣退助生誕の地に、がん患者会が1つもないことを知って愕然としたのです。「娘の命を助けてください。私のできることはなんでもします」苦しいときの神だのみ、といいますが、私は震える手を合わせて祈りました。その甲斐あってか、もっとも危険だった1年目の壁を再発なく過ぎたころ、私はがん患者会の必要性を再確認しました。高知になければ、作ればよいのです。もしかしたら私にできるかもしれない。私が作らなければ、そんな使命感のような気持ちでした。まるで何かに背中を押されているかのように。

そしてがん告知から3年後の平成14年12月23日、一人でも多くの方に喜んでいただきたい、との思いから「一喜会」と命名してこの患者会を設立いたしました。
2ヶ月に一度の定例会は、乳腺科、消化器科、放射線科などそれぞれの講師を招いた、質疑応答や個人相談などの医療相談が中心です。1ヶ月に一度のおしゃべり会では、日ごろ胸にたまった不安、不満などを何でも話し合い、心の癒しを目的にしています。毎月発送する会報には、会員の闘病記を中心に、活動の案内やお知らせを掲載しています。がん患者やその家族が、がんといいう病気に負けることなく、納得した医療を受けてほしい。心の重荷を少しでも軽くすることができれば。そんな思いでこの1年を歩んできました。

 高知での初めての試みに戸惑い、悩み、手探りの毎日が続いています。「これでいいのか!もっとできることがあるのではないか」ボランティア参加のスタッフたちと、ともに模索し、計画を立て、心が1つになったと感じられるとき、幸福感に包まれてます。たとえ我が子が5年間の間に再発転移がなく、無事に治癒さえすればそれでよし、と考えるよりも、国民の3人に1人ががんで亡くなる時代だからこそ、がん患者会は自分の体験を社会に還元していくべきだ。と私は考えます。がん患者が手を結べば、今の医療をもっといいものに変えることができる。そんな大きな目標を持っている同士の存在が嬉しくて!「一喜会」も設立から1年を迎えようとし、地盤も少し固まってきたのかな、と思い始めた去年の秋、1周年記念講演を企画することになりました。スタッフ一同、「ああでもない、こうでもない」と夜遅くまで会議に明け暮れ、企画を立てて協力者を募り、ポスターを印刷して、一軒一軒にはらせていただくお願いをして歩きました。

 そして東京からエッセイストで乳がん患者でもある田原節子さんを、京都から立命館大学教授で前立腺がん体験者である高垣忠一郎さんを、そして高知の中村から小笠原望先生を講師としてお迎えし、平成16年2月1日(日)高知市文化プラザのかるぽーとにおいて、無事に「一喜会」1周年記念講演を開催することが出来ました。当日、会場では久しぶりの会員たちの顔も多数見られ、嬉しい再開に「元気やったかえ」「元気にきまっちゅう!」との声が飛び交いました。「がんと向き合う心のケア」と題した1周年記念講演は、盛況のうちに幕を閉じ、「次の定例会でまた会おうね」の声に手を振りながら家路に着くがん患者、そして会員の家族の方々の顔は、明るく輝いていました。参加者達たちの晴々とした笑い声は、明日からまた始まる闘病生活への自信であり、新たなる闘志でもあることでしょう。「1周年記念講演を実施することができて、本当に良かった」そう実感できた1日でした。

地方には地方の良さを!高知には高知のよさを!心と心が結び合う、キラリとした患者会でありたいと、そんな気持ちを再確認することもできました。「自分は自分と考えるより、他人を思いやる気持ち、心を大切にせんといかんぜよ」坂本龍馬の声が聞こえてきます。

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【がん医療の充実についての請願書】  17年6月28日

高知県議会議長
結城 健輔 様

【がん医療の充実について】

請願の主旨および理由

  • 今や3人に1人ががんで亡くなっている現状の中、国は「第3次対がん10カ年総合戦略」を掲げ、「がん医療水準均てん化推進に関する検討会」や「未承認薬使用問題検討会議」の開催、また厚生労働大臣を本部長とする「がん対策推進本部」の設置と動き出しました。

  • がん対策の推進は重要な行政課題の一つとして位置づけられるものであり、地域格差をなくすため高知県においても、まずは県内のがん医療の充実を計るべく関係機関の連携のもとに、がん対策をより一層推進されるよう強く要望いたします。

請願の項目

  1. 高知県がん対策推進本部を設置し、県としてがん医療の向上に取り組むこと

  2. 県内における地域がん診療拠点病院の増設

  3. 抗がん剤治療専門医(腫瘍内科医)の育成については、国立がんセンターへ医師を派遣し研修させるなど積極的な対策を講じること。

  4. 厚生労働省の未承認薬使用問題検討会議において治療対象となった未承認薬を、早急に医師主導治療として実施できるよう助言・情報提供を行うこと。

  5. 地域がん診療拠点病院において腫瘍科を設置し、外科、内科、産婦科、放射線科及び麻酔科などのがん医療専門医を中心にチーム医療を提供することにより、がん患者により室の高い治療が提供できる体制を整えること。

  6. がんの予防・治療方法、病院治療成績及び診療体制等の情報発信を積極的に行うこと

17高議事第166号
平成17年7月8日
請願の審議結果について(通知)
当県議会に提出された下記請願については、平成17年6月の定例会において採択とされましたので、お知らせします。


がん医療の充実を求める請願について
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【抗がん剤治療専門医の早期育成を求める陳情書】  2月会報より
 日本では日本臨床腫瘍学会が発表した臨床腫瘍専門医を教育する暫定的な指導医(抗がん剤の治療経験が十年以上)は全国で442名です。米国では米国臨床腫瘍学会に約8,500人の腫瘍専門医(腫瘍内科医)が集まります。日本の人口から換算すると、米国の半分4250人は必要となりますが、日本の現状では必要な腫瘍専門医(腫瘍内科医)の1/10にすぎないのです。

 日本の腫瘍専門医(腫瘍内科医)がいかに不足しているか、おわかりいただけると思います。腫瘍専門医(腫瘍内科医)があまりにも少ない為、きちんとした抗がん剤治療が受けられず、全国各地のがん拠点病院ですら腫瘍専門医(腫瘍内科医)がいないのが現状です。

 又、術後に抗がん剤治療の重要性に気付き病院を変えようとしても受け入れてくれる病院はほとんどありません。なぜなら、この抗がん剤治療に使う薬代がそのまま製薬会社に流れるだけで病院の収入にならず、抗がん剤治療が手術のアフターサービスのようなものになっています。こういった日本の現状をなんとか変えていかなければなりません。

 腫瘍専門医(腫瘍内科医)を増やす為に、抗がん剤治療の専門家を育てようと昨年「日本臨床腫瘍学会」が発足、臨床腫瘍医(腫瘍内科医)を専門医として認定する事にしました。2006年認定開始に向け暫定指導医や研究施設の設備が進められます。地域間の医療格差をなくすため、高知がん患者会「一喜会」として、抗がん剤治療専門医(腫瘍内科医)早期育成を求める陳情書を高知県議会に対し陳情書を提出しました。
その結果、17年2月県議会定例会において、抗がん剤治療専門医の早期育成を求める意見書が全会一致で可決されました。

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【香川にもがん患者会 -2006年2月設立へ-】  11月28日高知新聞より
 本県の「一喜会」協力
 県内のがん患者やその家族、医療関係者らでつくるがん患者会「一喜会」(安岡佑莉子会長)。同会をモデルに香川県でもがん患者会「さぬきの絆(きずな)」が設立されることになり、発起人の朝日俊彦医師(香川県立中央病院泌尿器科主任部長)は「がんは今や国民病と言ってもいい。医療者と患者、双方が手を携え、二人三脚で歩んでいきたい」と話している。
 きっかけは2005年6月、高知市で開かれた日本尊厳死協会四国支部の講演会。安岡会長の長女が講師を務めたことで同支部の副支部長でもある朝日医師と知り合い、「香川でもがん患者会をつくりたい」と希望する朝日医師に協力する事になったという。
 「乳がんや喉頭(こうとう)がんなど、がんの部位ごとの患者会はあったが、すべてのがんを網羅する患者会は香川にはなかった」と朝日医師。
 八月には設立を呼び掛ける記事が四国新聞に掲載され、9月25日に協力者16人が集まって設立を決定。一喜会からは安岡会長と顧問の松浦喜美夫・仁淀病院院長が参加した。
 現在、患者8人をメーンに、医師や看護師ら医療従事者がサポートする形で、2006年2月の設立総会に向けて準備を進めており、「多くの人に参加してほしい」と朝日医師。安岡会長は「一喜会とは姉妹関係。お互いに協力し合い、がん医療の発展、地域医療の向上につながれば」と期待している。
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【母娘で闘う〈1〉-娘の病名、メモで告知-】患者を生きる
「胃がんです。急いでください。時間がありません」
99年8月、松山市の病院。医師からこっそり渡されたメモをトイレで開いて、安岡佑莉子さん(57)は震えと涙が止まらなかった。体の不調を訴えて受診した22歳の長女・中島英子さんの、本当の病院だった。
 英子さんは化粧品会社に勤め、高松で一人暮らしをしていた。2週間ほど前、よさこい祭りに合わせて、高知市に住む安岡佑莉子さんのもとに帰省した。顔色が悪く、やせた感じが、どうにも気になった。近くの診療所では腸炎と言われたという。「大きな病院に行ったほうがいいよ。絶対に変よ」と念を押した。
 やがて、高松に戻った英子さんから電話があった。「病院に行ったら、胃潰瘍で手術することになった。お母さんに来てもらってと先生が言うんだけど、来られる?」
 胃潰瘍なら薬で治るはず。まさか……。佑莉子さんに疑念がわいた。もしもがんだったら、幼なじみが勤務医をしている地元の高知医大(現高知大)病院で治療を受けさせようと心に決めた。
 翌日。高松の病院で、英子さんと一緒に説明を聞いた。医師は病名をあいまいにして話しながら、佑莉子さんに目配せをしてみせる。「手術は高知で受けます」と言うと、快諾された。検査データを受け取って席を立った時、走り書きのメモを手渡された。
 佑莉子さんは、高知大学で主治医となった松浦喜美夫医師から、改めて英子さんの胃がんについて説明を受けた。
 かなり進行している可能性が高く、抗がん剤の5FUとシスプラチンで小さくしてから手術で切除し、根治を目指す。胃がんでは術前の抗がん剤は治療は効果が立証されていないが、松浦医師らは数例手がけ、手応えを感じていた。
 説明を受けた日の夕方、佑莉子さんは「初期のがんで、切れば治る。がんばって治そう」と切り出した。英子さんは驚いた様子をみせながらも「わかった」と答えた。
 がんがかなり進行しているらしいことだけは、どうしても言えなかった。

写真解説:安岡佑莉子さん(左)のブログをパソコンで見る英子さん=高知市の安岡さん方で

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【母娘で闘う〈2〉-手術後も終わらぬ治療-】患者を生きる
 告知の翌日から、抗がん剤の点滴が始まった。主治医の松浦紀美を医師は当初、週3回の点滴を2週間続ける予定だったが、白血球の減り方が激しく、1週間でやめた。
 9月21日に手術。朝から始まり、午後4時半まで続いた。胃の4分の3と胆のうを摘出し、さらに近くのリンパ節二つも切り取った。
 手術後、母の安岡佑莉子さんは松浦医師から「思ったよりがんが進んでいて、漿膜まで浸潤していると考えられます。組織診の結果を待ちましょう」と言われた。胃壁は5層の膜からなり、漿膜はその最も下の層にある。
 松浦医師の言葉に、がんを切り取れれば治療が終わるわけではないのだと、佑莉子さんは思い知らされた。専門知識はなかったが、医師の口ぶりから楽観できないことは察せられた。だが、英子さんには「がんは初期で、切れば治る」と教えてある。不安な気持ちを必死で隠しながら、英子さんに接した。
 10日ほどして、組織診の結果を松浦医師から聞いた。
「残念ですが、腹膜に播種が認められました。未分化の印鑑細胞です。たちの悪いがんだと考えてください」
 胃壁に深く浸潤して穴を開けたがんが、胃の外の腹膜に飛び散っているということだった。こうなるともう、がん細胞が体のあちこちに転移している可能性が高い。
 専門用語が交じった医師の説明を聞いても、佑莉子さんにはよくわからなかった。「治るんでしょうか」と聞くのが、精いっぱいだった。
 「1年以内に再発する確率は80…いや70、いや、60%です」
 松浦医師の言葉が頭の中をぐるぐる回る。自分の顔から血の気がうせていくのが、はっきりわかった。英子さんに悟られないようにするのが精いっぱいだった。
 翌日から、また抗がん剤治療が始まった。体に負担がかかっても、残っているがん細胞を極力減らすことになった。白血球の数値が限界まで下がると点滴を中止し、上がってくると再び点滴する。副作用の吐き気と下痢がひっきりなしに続き、英子さんの体重は34キロ台まで減った。

写真解説:松浦医師(左)と話す安岡佑莉子さん=高知市内で

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【母娘で闘う〈3〉-情報求め 専門医100人に手紙-】患者を生きる
 00年春、手術後から続いた抗がん剤治療がひとまず終わり、英子さんは勤め先のある高松市に戻った。以後2ヶ月ごとの通院治療を数回繰り返し、わずかながん細胞も残さず再発を防ぐことになった。
 母の安岡佑莉子さんは、自分の知識不足がふがいなかった。黙って医師の話を聞いているだけでいいのか。ちゃんと調べれば、娘を救う方法があるのではないか。
 がんについて徹底的に勉強し始めた。午前中から高知医大の図書館や県立図書館に通い、パートに出る夕方まで専門書を読み込んだ。
 その日知ったことを寝る前に振り返り、わからない点があると翌朝、会館時間前から図書館に向かった。最新の治療法は、がんの専門誌を毎月数冊買って熟読した。
 「娘のがんが再発したら、地元の病院では対応できないだろう」。そう考え、全国の胃がんの専門医100人近くに手紙を出した。英子さんの病状を詳しく書き、「再発した時、治療の方法はあるでしょうか」と質問した。
 返信は3通。内容はどれも厳しく、「おそらく転移しているから、好きなことをさせた方がよい」と書かれた手紙もあった。
 新しい抗がん剤や治療法の情報が知りたくて、製薬会社や出版社にも手紙を出した。どこまで情報がえられるかわからなかったが、何かせずにはいられなかった。
 胃の4分の3を切ったため、弁当は一度で食べきれず、何度かに分けて食べる。食後、吐き気が起こると1時間近くトイレにこもる。外で食事をすること自体がつらくなった。発熱すれば会社も休まざるを得なかった。
 「22歳まで、手抜きをして生きてきたわけではないのに、なぜ」。涙があふれた。
 2ヶ月ごとの抗がん剤治療で点滴の針を刺しやすいように、胸の血管に器具をつけておこうと主治医から提案された。だが、断った。「そんなものを体に残しておいたら、病気に支配される」と思った。いつかは必ず、点滴を外す。そう決意していた。

写真解説:がん専門誌は安岡佑莉子さんの貴重な情報源になった=高知市内で

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【母娘で闘う〈4〉-再発率80% 重み抱え守る-】患者を生きる
 0年11月。高知医大(現高知大)病院で抗がん剤治療を初めて1年余、4クール目の治療に入って1ヶ月がたっていた。吐き気やだるさには慣れてきた英子さんの体中に、かゆみやほてりが出た。呼吸も苦しい。これまでにない副作用と考えられた。
 「もう抗がん剤はやめましょう」と主治医の松浦喜美夫医師は言った。だが、母の安岡佑莉子さんはためらった。
 使っていたのは、5FUとシプランチという抗がん剤だった。呼吸の苦しさは、シスプランチの副作用ではないのか。5FUをやめてしまったら、5FUの効果を高めた新しい飲み薬TS1も使えなくなる。そうなると、がんが再発したときに戦う手段がなくなってしまう。
 佑莉子さんは「シスプラインチだけやめて、5FUは続けてほしい」と頼んだ。
 リスクはある。だが、できるだけ患者側の意見を尊重したと松浦医師は考えた。英子さんを診察室に、呼吸困難に備えてステロイド系の注射も用意したうえで、5FUだけ点滴を続けた。新しい副作用はなかった。
 点滴による抗がん剤治療は00年いっぱいで終了。01年からは、UFTという飲み薬の抗がん剤に切り替えた。回力は次第に回復し、再発の不安も少しずつ薄らいでいった。
 手術から約2年後のある日、英子さんは体調がさえないと、地元の産婦人科で女性ホルモンを注射を受けた。
 それを知った佑莉子さんは、あわててやめるように説得した。安定している状態に、悪影響が出ることが心配だった。
 そして、初めて英子さんに伝えた。「実はがんが1年以内に再発する可能性は80%だった。やっとここまできたのだから、大事にしてほしい」再発率80%。「その重みを今まで抱えていてくれんだ」。英子さんに母へ感謝がわき上がった。
 がんは、治療後5年後にあたる04年9月21日、英子さんは発病前から交際していた昌宏さんと婚約。その1年後に結婚し、新たな生活を始めた。
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【母娘で闘う〈5〉-情報・仲間集め不安克服-】患者を生きる
 高知市に住む佑莉子さんは、英子さんの治療を通じ、患者が「情報と仲間」から孤立していると痛感した。
 99年に英子さんの胃がんがわかってから、佑莉子さんは専門書を読み、医師や製薬会社に手紙を書き、独力で情報を集めていた。だが、本人や家族が悩みを打ち明けたり、欲しい情報を得たりできる場所には、たどり着けなかった。
 英子さんの治療が一段落した02年11月。佑莉子さんは、思いを新聞に投稿した。
 「不安を感じたとき、気軽に駆け込める相談室や情報センターなどの態勢づくりが、もっと検討されてもよいではないでしょうか。がん患者会を、高知にも立ち上げたいものです」
 記事を読んだ地元の人たちから「ぜひ、作って欲しい」と反響が集まった。その声に励まされ、高知医大(現高知大)病院で英子さんの主治医だった松浦喜美夫医師(現いの町立国民健保仁淀病院院長)の協力も得て、02年末、がんの部位を問わない患者会「一喜会」を立ち上げた。
 会員は現在約80人。専門医による講演のほか、会員同士が疑問や悩みを話す「座談会」が活動の柱だ。
 「薬を飲んでいるが、腫瘍マーカーの数値が上がっている。このまま続けていいのだろうか」「腹腔鏡手術は、何例くらい手がけていれば一人前の医師なのだろう」
 医師が座談会に参加することもある。「患者さんの悩みを知ることができ、こちらも勉強になる」と松浦医師。
 患者や家族からの電話相談にも応じている。会長をつとめる佑莉子さんの携帯電話には、昼夜を問わず様々な問い合わせがある。講演の協賛金集めや、会のホームページの更新も引き受けている。
 手術からまもなく7年。すっかり快復した英子さんは、夫と暮らす高松で会社員として忙しい毎日を送る。だが佑莉子さんは、患者会の活動をやめるつもりはない。
 「知ることが、患者の力につながる」
 そう信じているからだ。

写真解説:一喜会で参加者の話を聞く(右から)中島英子さんと安岡佑莉子さん=高知市内で

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【がん情報編 -主体的に学習、うのみは禁物】患者を生きる
「患者を生きる 母娘で闘う」で紹介した高知市の安岡佑莉子さん(57)は、娘の胃がんについて学び、主治医に抗がん剤の選択を提言できるまでになった。専門知識のない患者や家族が、能動的に病気に向き合うためのポイントをまとめてみた。
 まずは、医師の話はできるだけメモしておくことだ。すぐには理解できなくても、後で調べるときに役立つ。疑問点や患者の体調なども記しておくと、医師とのコミュニケーションを図りやすい。
 基本的な知識をまとめた本を一通り四で手元に置いておけば、家族を含めて理解を深められる。「患者さんと家族のための かんの最新治療」(岩波書店)や「がんを生きるガイド」(日経BP社)などがある。
 詳しい情報を得るには、大きな病院に広まってきた「患者図書店」を活用する方法がある。県立静岡がんセンター「あすなろ図書館」のように専任の司書がいる所もある。日本病院患者図書館が運営するウェブサイト「Web患者図書館」で探すことができる。
 治療法などの情報を集められる代表的なウェブサイトの一つが、国立がんセンターが作った「一般向けがん情報」。先端医療振興財団の「癌情報サポート」は、米国国立がん研究所(NCI)の情報を翻訳して記載している。
 ただ、ネット情報の中には信頼性に疑問があるものも少なくない。うのみにせず、治療法の選択や疑問については、医師と十分に話し合うことが最も大切だ。
 主治医以外の医師に意見を聞きたいときは、「セカンドオピニオン外来」を利用する方法がある。ただ、検査データなどが必要なので、主治医にもきちんと伝えるのが基本だ。セカンドオピニオンを頼める医師や病院は、ネットやガイド本でも調べられる。患者会はほかの患者との情報交換や、悩みを話し合うことで精神的な支えになる。各地に様々な団体があり、病院に問い合わせたり、
ネットやガイド本で探したりして選ぶ子が出来る。
 心の支えになる闘病記は、東京都立中央図書館の専門コーナーや、ネット上の古書店「パラメディカ」で探せる。
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